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褒める

日記
03 /31 2014
この頃の母は何かにつけ「認知症」だから何もできないが口癖になり進んでする家事は洗濯くらいになっていた。
もともと、1日中寝ていたいというような人だから何もしなくていいのは母にとって好都合のようにも見えた。

私が夕食の支度を頼んでから少し気が変わったようだった。
毎日ではないがおかずを1品だけ作る。
それでも作ってくれたら大げさに褒めて感謝する。
父も買い物を手伝ってくれ何とか夕食が準備できるようになった。

献立はすごいものだった。
焼きそばと刺身が並ぶこともあった。
それでも母が台所に立ってくれることはありがたかった。
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変化

日記
03 /30 2014
私の帰宅時間は19時か20時で、必ず連絡をするようにしていた。
同居を始めたころは母が食事を準備してくれ、私は頼まれたものを買って帰るだけだったがだんだんと状況は変わっていった。

電話をすると母が「買い物に行かなかった」「何も作ってない」
「腰が痛くて何もできない」と同じ理由を繰り返すようになった。
帰宅すると、父が買ってきた惣菜が残っておりもう済ませたと
20時では遅すぎるのだと父は言う。

あわてて食事を用意する。父の分は翌日食べられるように置いておく。
母はテレビをぼーっと眺めていて何もしない。
21時近くになって父を除いた4人で食事を摂る。

しばらくして、私は少し強い口調で母に頼むことにした。
父と妹の食事は母が準備すること。それが母の役割だと。
母はわかったと答えた。

尋問

日記
03 /29 2014
仕事が休みの日、父と母は食卓に並び私を呼びつけるようになった。
私が出戻ることになった理由と今後の話を説明しろと。

1度2度3度…と。
休みになると毎回毎回、同じ話の説明を繰り返し問うようになった。
「だから何回聞かれても同じだよ」と言うと父はイライラしてこの前とは話が変わっていると大声で言う。
母はいつも一緒に聞いているのに一度聞いてみたかったと言う。

父は耳が遠いことで聞き間違うことが多くなっていたが、この頃からそれだけではないのではと思うようになった。
何回話しても無駄なんじゃないかと疑問を持つようになった。
話をする度に口論になるので、当然だが父との会話は減ってしまった。


父は囲碁をする人にボケはいないが口癖。
毎日運転もするし自分に絶対的な自信を持っていた。
結局、父の尋問はずっと続くことになった。

幻覚

日記
03 /28 2014
夜中に父と母の声がする。
母が「見知らぬ男が懐中電灯で顔を照らして逃げた」と
父を起こしたらしい。
「バカなことを言うんじゃない」
父は大きな声で怒鳴った。

母は時々幻覚を見るようになった。
髪の長い女、子供、若い男…
父はそのたびに大きな声で怒鳴っていた。

物忘れや同じ話の繰り返し、幻覚と母の病状は確実に進行していった。
父は思うままにならない現実に戸惑い苦しむようになった。
母は父より6歳年下だ。
よもや自分が面倒を見ることになるなど想像もしていなかったようだ。
「もうおしまいだ」
父が大きな声で吐き捨てるように言った。

運命

日記
03 /27 2014
父と母について話し合いを続け入院はないと説き伏せやっと母を受診させることができた。
診断名は「アルツハイマー型認知症」
担当医は直接母にすでに中期だと告げた。
1人では生活できないから手伝ってもらう必要があると説明した。

なんの心準備もできていなかった母はことの大きさをあまりよく理解できていない様子だった。
ただ、「認知症」という言葉は頭に強くしっかり刻み込まれていたようだった。

父に母が「認知症」であること、しかも進行が早いこと投薬を始めるが治らないことを話した。
父は治らないのなら病院に行く意味がないと怒るように答えた。

父はこの現実を受け入れることができなかった。

拒否

日記
03 /26 2014
母の異常が確信となり父に話すことにした。
物忘れも同じ話の繰り返しもどうもおかしいから受診させたいと相談した。

父は受診はさせないと言った。
もし入院でもしたら妹の世話は誰がするんだ。
この家はどうなる。
「しっかりしろ」と少し強く言えばいいんだ。
だから受診なんてさせないとすごい剣幕で言った。

知り合いの奥さんが施設に入所してしまい帰ってこないと聞いていたようだ。

唖然としてしまったが、父は言い出したら聞く耳を持たず
私は「居候」の身でもあり、強く言い出すこともできず
母の受診は半年ほど後になってしまった。

決定打

日記
03 /25 2014
母は物忘れが顕著になってきていた。
口癖は「初めて」「見たことない」「聞いたことない」
同じ話の繰り返しも5分も間があかない。
加齢からのものか、それでもおかしいと思い始めていた。

深夜近くになると相変わらず背を丸めて何かを読んでいる。
何なのか、気になって見るとそこにはたくさんの紙。
数年前の何かの案内のプリントや最近の広告やくちゃくちゃのレシートなどなどどれもが要らないものに見えた。

「これいるの?」と聞いてみたらあわててかき集め
「大事なもの」と鞄に入れてしまった。

それからは私の目を避けるように戸を閉め同じように
「大事ななもの」をずっと見ていた。

いらだち

日記
03 /24 2014
80を過ぎた父は耳の聞こえがかなり悪くなってきていた。
そのせいかイライラすることが多くなっていた。

たまに昼間に家にいるとどなる声が聞こえることがあった。
同じ話を何度も繰り返す母に向けたものだった。
母は私のいないところで「殴られた」と言うこともあった。
実際はどうだったのかはわからない。
私の言った言葉を聞き違えて恐ろしい顔で怒ることもあった。

深夜近く、階下で明かりがついているのに気づいて降りていくと母が座って何かを読んでいた。
新聞を読むのが好きなので特に気に留めず
「そろそろ寝たら」と声をかけるだけだった。

そんなことが何日か続いていた。

きっかけ

日記
03 /23 2014
1年ほど経った頃、母は持病の腰痛が悪化し歩行状態が悪くなった。

悪化したのは、通院していたクリニックでのマッサージで
「骨を折られたから」と母は言っていた。
実際には骨折はなく、他の病院で脊柱管狭窄症と診断された。
しかし、この思い込みは強くことあるごとに「折られた」と主張するようになった。

妹の迎えができなくなり、介護保険を使い送ってもらうことにした。
買い物も父に任せるか、私が休みの日にまとめていくようになった。

母は出かける用事がなくなり家で一人過ごす時間が増えた。

一つの事件が起きた。
ある日母が気分が悪いと寝込んでしまった。
原因は1日1錠服用する薬を毎食後飲んでいたからだった。
投薬管理は私の役割になった。

穏やかな生活

日記
03 /22 2014
妹は通所施設に通っている。
朝は父が車で施設まで送り、帰りは母がバスで迎えに行っていた。
買い物は、二人一緒に近くのスーパーまで車で出かけて行った。

午後になると父が囲碁クラブに向かい、母は家事をしながら時間になると妹の迎えに出かける日々だった。

父も母もこの生活を守りたいと言っていた。
今まで通り妹の面倒は両親が見る。
だから、私が送ったり迎えたりしない。
同居はしていても親世帯の生活に干渉してはいけない。
暗黙の内にそんなルールが決められていた。

夜になると私は早々に子供と二人、別の部屋でTVを観ていた。

uncha

認知症の母を見守りながら生きています